何処へ行く

暇をつきつめる

神田松之丞に憧れて。

なんとなく今の仕事に飽きている。決してやりがいの無い仕事ではないのだが、細かい違いはあれど結局のところ同じ作業の繰り返しなのである。

漠然と芸人にでもなりたいなあ、なんて思いながら漫才やらコントやら、はたまた落語なんかも聞き出してそこからの流れで講談に行き着き、神田松之丞氏にハマってしまった。ハマると言っても地方住まいの人間が頻繁に見られるわけでは無く、渋谷らくごの配信だったり、Youtubeにアップロードされている映像などを見て聞いて楽しむ程度のことである。自分は講談というものをあまり面白いものだとは思っていなかった。以前大須演芸場の寄席で見た事があったが非常につまらなかったからだ。そもそも何を言っているか分からず全く内容が入ってこない。まくらも面白くないし、この人なんで高座に上がっているんだろうかなどと考えながら聞いていた。こちら側の知識を要する演芸なのだと思う。しかしながら、神田松之丞の高座はまくらから引き込まれ、迫力のある読み方に圧倒されてしまった。とにかくまくらが爆笑で、そこからの流れをぶったぎるかのように急に真面目なモードに入り聞くものを震えさせるような講談をする。緊張と緩和というか、緩和からの緊張というか。おそらくこのスタイルは講談というものに親しんでもらえるよう工夫をして出来上がったのではないかと思う。以前聞いた講談は寄り添うというようなことを微塵も感じなかったが、神田松之丞からはそういうようなことを感じる。ブログを拝見すると、講談というものを後世に受け継がせなければならないというような使命感を持って取り組んでいるということが伝わってくる。自分に置き換えてみると今の仕事に飽きたから芸人にでもなろうかな、みたいなクソみたいな発想で芸人になろうかななんて発想が恥ずかしくなる。何事に取り組むのにも使命感を持って行うということはとても大事だと思う。逆に言えば使命感を持って取り組めることを仕事に出来たら最高だ。それが今の仕事だったら良いのだが、あまり感じられていない。すべて投げ出して勝手な使命感で芸人にでもなれば本望なのだろうか。こんな中途半端な人間はきっと何をやっても中途半端なまま終わってしまうかもしれない。それでも今は落語や講談が好きで、自分も高座に上がってみたいなんてことを考えている。

神田松之丞が神田松鯉先生弟子入りしたのが24歳のとき。自分は今23歳。この1年答えを出せるようしっかりと考えをまとめたい。