何処へ行く

暇をつきつめる

おかね

奇跡の経済教室 基礎編・戦略編を読んだ。

難しい話を分かりやすく説明してくれていて単純な自分はこんな魅力的な政策があるのならばすぐにでも実行して欲しいと思い令和の政策ピボットにすぐさま賛同し山本太郎ツイッターをフォローした。

本の中でも語られているがデフレを脱却する為にはこの方法が最も良いのだろうということがなんとなく分かったけれど、過度なインフレを本当にコントロール出来るのかは正直疑問だなあと思った。まあこんな事を書くとデフレ下で過度なインフレを心配するとかアホなのかと言われるのかもしれないけれど、このままのデフレであれば緩やかな下降で済むものが過度なインフレにより直滑降で経済が破綻てしまいそうで怖い。過度なインフレなど心配する必要ないと言うのではなく具体的にインフレのコントロールについても詳しく書いて欲しかった。

デフレを脱却することがとにかく重要であることは間違いないと思うので積極的な財政出動をすすめながらインフレ率を注視して緩やかなインフレが続く社会が作られる未来に期待しよう。

「月が綺麗ですね」をする

マッチングアプリでメッセージを始めてから2週間ほど経つ女性がいる。できれば実際に会って話をしてみたいのだが断られたらどうしようなどという不安から誘えないでいる。きっとこの不安は相手を好きという感情から発生しているものだろう。そう俺は今恋をしているのだ。たった2週間の1日1通程度の交流で相手のことを好きになっている。この1日1通のメッセージの交流がどこか奥ゆかしくて、メッセージアプリでよく行うような短文ではなく少し長い文を送り合っているので現代に蘇った文通のようなものだと思っている。おそらく相手も良い印象を持っていると期待しているのだが、なかなか会いたいと伝えるタイミングが難しく誘いかねている。俺の思春期は終わりに近づいているなと感じているが殊恋愛に関しては一向に成長しない。というか対人間関係において成長をしていない。思春期が終わりに近づいているとどこで感じているのだという気もしてくるが。相手の好きだという音楽を聴きながら相手のことを思い浮かべる。これを俺は「月が綺麗ですね」をしていると思っている。あなたの好きな音楽が私は好きです。それすなわちあなたのことが好きですということである。このことが相手に伝わってくれたらいいなと思いながら本日も少し長めの文を送ってみる。

なにが遊びを仕事にするだ。こちとら仕事を遊びにしてんだ。

SNSを見ていると「遊びを仕事にていて毎日とても楽しいです!」みたいな投稿を頻繁に見るし大変魅力的なように見える。

でも私はそれに対して異論を唱えようと思う。かくいう私もつい先日まで今の仕事をやめて芸人にでもなろうと思っていた。でもやはり今の安定した仕事を手放して茨の道かもしれない道を歩むことに不安を感じ断念してしまった。だからこの考えはそんな自分を正当化するために湧き上がってきたのかもしれない。

私は大手企業に高卒で入社し7年程が経った。仕事も覚えて程々に充実した社会人生活を送っている。しかしながら7年も同じ会社にいるとどうしても仕事にマンネリを感じてきてしまう。そんな時「遊びを仕事にしています」みたいな投稿を見たら当然魅力的に感じる。でも結局のところ私は今の仕事を辞めることを躊躇し諦めた。この事に数年後後悔することになるかもしれないが今はそうならないように努力するしかない。

マンネリを感じていた仕事も少しずつ楽しくなってきた。我が社の社長の発言で「他社でも通用する人材が我が社で働きたいと思ってくれる会社にしたい」という言葉について考えてみた。我が社の持ち味は改善である。7年勤めていても改善の本質を理解できていない。そこで大野耐一氏の書籍や河合満氏の書籍を手にとってみた。大野耐一氏の書籍からは変革をする時の厳しさを教えられた。河合満氏の書籍からは毎日変化し続けることの重要性を学んだ。自分なりの解釈として「我が社で働きたいと思える会社」とは自分の業務を改善することで楽しく、またやりがいを感じて仕事を出来るということだと思った。我が社はそういった風土が過去にはあったはずだがどうしても現在の日本の経済状況と酷似していると思えるが停滞気味だ。しかし現在は大変革期。このままではいけないと意識変革が必要だ。

河合満氏の「毎日やり方を変えよ」という言葉を重く受け止め改善していこうと思う。それが仕事を遊びにすることに繋がると思うから。

 

  

シェアハウスに憧れる孤独でつまらないお前らへ

お前らはきっと退屈で孤独な毎日を過ごしているのだろう。そしてあてもなくインターネットをダラダラと見ているとギークハウスだったりリバ邸だったり、自分と同じような境遇の人達が集まって楽しそうにしているのを見つける事もあるだろう。自分もその輪の中に入ったら今の退屈な生活も少しは変わるのではないかと思う。でもな、シェアハウスはあくまで住む場所であって毎日イベントが催されている訳ではないことを知っておいて欲しい。何も考えずに取り敢えず住んでみようと飛び込んだ所で、そんな幻想を持っていてはガッカリしてしまう可能性が高い。だから、まずはそのシェアハウスの管理人とSNSでもなんでも良いから一度コミュニケーションを取ってみて欲しい。このコミュニケーションというのは「入居したいです」などの連絡ではなく、その人が投稿したことに対して何らかの反応を返すといった類のことである。コミュニケーション能力の高い人であればこの段階は飛ばして、すぐにでも入居しても良いと思うが普段の生活はもとより、匿名のSNSでも孤独なお前らは、このステップを踏むことで入居時のその空間への「居づらさ」みたいなものが軽減されると思う。シェアハウスに入るからには、そこの住民と楽しく過ごすことが目的にあるはずだ。きっとお前らは打ち解けるまでにも時間がかかると思う。だからこそ入居前に少しでも自分のことを知ってもらって、キャラみたいなものを作っておこう。そのシェアハウスに馴染むまでの時間がグッと短くなるはずだ。まあ頑張ろう。

神田松之丞「講談漫遊記 vol.2 堀部安兵衛特集」

実に5ヶ月ぶりの神田松之丞独演会であった。

演目はネタ出しされており

・安兵衛駆けつけ

・安兵衛婿入り

・荒川十太夫

の3本であった。

以前見た安兵衛駆けつけ・婿入りは2つで1つのネタになっていて、それをどんな風に2つに分けるのかなと思ったら駆けつけに関して言えば助長的でこれで1ネタにするのは少し弱くないかなと思った。

ちゃんばらモノで言えば山田真龍軒の方が圧倒的に面白いし、違袖の音吉も面白い。

それらと比較するといまいち迫力にかけていたように思えた。

元々の講談の台本がそうなのかもしれなが、あまり面白くないなと思った。

テレビ等のメディア露出が増え恐らく新規の客も多数いたであろう今回の独演会の開口一番、どれだけの人の心を掴めたのだろうか。

本当に納得してこのネタをかけたのか疑問をいだいてしまった。

2ネタ目の安兵衛婿入りは前半は駆けつけのエピソードを講釈師風に話すくだりが面白く、後半は安兵衛が酒を飲み過ぎて失敗してしまうが殿の厚意で許され忠義を尽くすことを誓う話となっていて、衝撃は強くないが良い話だなと思う。

3ネタ目の荒川十太夫

この話は僕が初めて神田松之丞をみたときのネタだ。

みたと言っても生でみたわけではなく、神田松之丞が面白いらしいとの噂を聞き調べたところ当時渋谷らくごアーカイブ動画が配信されていてそれを視聴した。

今は配信されていないが、しぶらく名演集の荒川十太夫の動画版である。

衝撃をうけた。まず誰がきいても爆笑するんじゃないかというクリアファイルまくらから始まり、急ハンドルで赤穂義士伝に入るための真面目なまくらに移る。

当時の僕は忠臣蔵がどういう話なのか全く知らない状態できいた。

忠臣蔵は別れがテーマなのだという。人はいずれ死ぬ。この会場に集まっている人はもう二度と合わない可能性だってある。日々別れを繰り返している。

だから忠臣蔵は数百年経ったあとの現代人にも響くのだと。

そこからの本編の荒川十太夫である。

僕の貧相なボキャブラリでは見事と形容することしかできない、とてつもない衝撃を受けた。

特に印象的なシーンは殿に表を上げいと言われた時の罪をおかしているという罪悪感から声だけハッと発するが顔をあげることはできない。

このような行動をする人がなぜお上に反抗するような事をしてしまったのか、ここからの独白に思わず涙がこぼれた。

荒川十太夫というネタは僕にとって、神田松之丞最初の衝撃であり見事に心を鷲掴みにされた最高の出会いであった。

だからこそ、今回ネタ出しをして全国周っているのだからよっぽどの工夫をこらした荒川十太夫をきけるのではないかと期待していた。

しかしながら、その期待を超えることはなかった。

 演出はほぼ同じ。少し説明が多くなっていたような気もした。

完成度で言えば音源の方が圧倒的に良いのではないだろうか。

でも、どうやらそれは僕の主観らしい。

Twitterで他の人達の感想を見ているとCDできくよりも圧倒的に面白いという意見が多数あった。

たしかに生のほうが迫力もあるし集中もできるから面白い確率は高い。

それでも今回の荒川十太夫は音源に負けていたと思う。

言い方を変えれば音源の荒川十太夫が出来すぎているのかもしれない。

そしてもう1つ、今回の荒川十太夫を楽しめなかったことで、僕がどういう風に講談をみているのかが分かったような気がした。

一般的に講談や落語のような寄席演芸は繰り返し同じネタをかけることもよくあるので、その差異を楽しむという側面が含まれている。

しかし、僕はどうやらそれを楽しむことはできないことがわかった。

あんなに衝撃を受けた荒川十太夫であっても二度目であると、楽しめなくなっていた。

それが音源に身体性も生の臨場感も追加された状態であってもである。

つまりは僕が受けた衝撃というのは講談という演芸にではなく荒川十太夫という話のストーリーと神田松之丞の熱演であったのだろうと思える。

今回もたしかに熱演ではあったと思うが荒川十太夫はストーリーできかせる話だから熱演だけでは大した衝撃になることはない。ストーリーはもう知っているのだ。

寄席演芸の特性上同じネタを何度もきくことも多分にあると思われるが、これだけコンテンツの溢れた現代で同じネタを何度も繰り返しきいて楽しめる人がどれだけいるのだろうか。

僕は本気で神田松之丞を盲信し講談が明治以来の隆盛を極めると思っていたが、難しいのでは無いかと思ってしまった。

寄席演芸を見始めて1年そこそこのただの客が今回の独演会を楽しめなくて

モヤモヤしていたから原因を考えて吐き出した駄文でした。

淀五郎はまだきいた事がないので愛知県でやってほしいです。

国が変わると生活の何が変わるのか

出張で中国は天津に来てから早3週間。

 

日本にいたって基本的には部屋の中で過ごしている自分としては住む場所が変わったって、それが例えば海外だったとしてもそんなに違いはないと思っていた。

 

しかし、天津に来てからなんだか暇だなと思う機会が増えているような気がする。

 

日本での生活を振り返ってみると、平日は仕事から帰ってきたら飯食いながらテレビを適当に流して11時ぐらいになったら睡眠というような感じだっただろうか。

日本にいた時はテレビ自体は嫌いではなかったものの、「無くてもいいもの」ぐらいに思っていたけど実は「無くてはならないもの」だったのかもしれない。

ちなみに宿泊先のホテルのテレビは日本の番組だとNHKのみ映る。

こっちでの平日の夜は同行している上司と外でご飯を食べて帰ってきたら、風呂入ってスマートフォンポチポチしていつの間にか寝ているというような感じだろうか。

そのおかげか寝る時間はかなり早くなって何も無い日はだいたい22時ぐらいには寝ている。

 

平日の夜はまだ良い。問題は休日だ。

 

日本での休日の過ごし方で思い出せるのは映画館での映画鑑賞と落語会だろうか。

映画に関しては、こちらでも観ることは出来るかもしれない。

日本語の作品は限りなく少ないだろうが、万引家族が現在放映中である事は確認できたので観に行こうかと思っている。

問題は落語会ないし講談会である。

日本にいた頃は週1とまではいかないまでも2週間に1回は間違いなく行っていたと思う。

つまんねえなあと思うこともあったけれど、なんだかんだ好きな趣味であることは間違いなかった。

いつだったか神田松之丞の独演会後、もはや「生きる希望」だみたいなことをつぶやいたような気もする。

音源を聴けばいいだろと思うがやはり生とは別物で面白いのは面白いんだけど、やはり満たされるものではない。

これに勝るとも劣らない趣味を中国で見つけたいところだが難しいんだろうなと思う。

言葉の壁は仕事だけでは無く趣味の面でも大きく立ちはだかるなと実感している。

文化的な趣味が多かった自分には中国の映画や漫才みたいな伝統芸能があることに興奮して観てみたいと思いながらも言葉が分からないのでは話にならない。誠に残念である。

 

受け身の趣味はとても難しそうなので、それでは何か実践してみようかなと思いだしている。

講談を一席覚える所から始めてみようか。

 

実際のところ中国での休日に何をしているのかと言うと、何を勘違いしたのか日本では自主的には行ったことのなかったキャバクラみたいな所に行ってしまっている。

3週間で3回だから中々の頻度ではないかなと思っている。

値段も500~600元と決して安くないのに。

異国に来るというのは恐ろしいモノで開放的になるというか、なんというか恥ずかしい思いでいっぱいだ。

まあこれもそんなに悪いものではなくて日本語が喋られる女の子と会話しながら少し中国語の勉強にもなり、語学学習のモチベーション向上にならなくも無い。

とはいえ人とのコミュニケーションが苦手なので、これすらも面倒になって来ている自分もいる。相手の女の子次第かもしれないが。

 

旅行したらどうだと思うも、天津は観光地が絶望的に無い上に、旅行エッセイなどで楽しそうな文を読むと行きたくなるのに実際行ってみると、あまり楽しめないという事が経験上多々有り二の足を踏んでしまっているのが現状だ。

 

こんなことを考えながら休みになれば女の子に会いに行くんだ。きっと。暇だから。アホだから。

「宇宙を駆けるよだか」を見た

終盤の元に戻るところあっさり過ぎだろと思ったけど、入れ替わりのシステムとかは重要じゃなくて身体が入れ替わることによって、見える世界というか世界そのものが変わってしまうことに気付くのが重要だったのかな。でも可愛い身体になっても幸せになれない人がいたり、すれ違いざまにブスと罵られるような身体になっても幸せになれる人もいる。ただ自虐で笑いを取りにいっていたので、自らのコンプレックスを認められない人にとっては相当に難しいことではないかなと思う。しかしながらそのコンプレックスも周囲の人間の影響によるものが大きいというのもこの作品内では伝えてくれている。加賀によって最初は絶望していた海根の身体の小日向は希望を見出す。そういった人が1人でも海根然子の周りにいれば世界は変わっていたのかもしれない。ただその1人を見つけるのがとても難しいのだが。自殺したときの海根然子は家庭にも学校にも居場所は無く死ぬ以外の選択肢はなかっと思える。結果的に死ぬことによって世界を変えることができた訳で、どう行動するのが良かったのかは全くわからない。きっと本人がどうこうできる問題ではないのだと思う。こういった人を助けられると言ったら少し暑苦しいが受け入れられるような環境だったり居場所があったらいいと思う。

シェアハウスだとかでこういった人たちを受け入れている場所もあるが、少しキラキラし過ぎていて近づきづらい印象を抱いてしまう。とくに絶望している人間からしたら特にそうだと思う。難しい問題だ。わからない